昨日アップした「そのとき歴史が動いた」の名言トップ10に、山本五十六の言葉が入っていた。
「百年兵を養うはただ平和を守るためである」
真珠湾攻撃を企画・遂行した山本五十六が、対米戦争回避にこれほどの情熱を傾けた人物だったとは、知らなかった。対米戦が無謀であることを知りながら、政府の決定に従い対米戦を遂行せざるを得なかった山本五十六。これほど苦しい立場に立たされたリーダーは、古今東西いなかったのではないだろうか。
上記の言葉は、真珠湾を攻撃する部隊を送り出す時の言葉だという。最後の和平工作に一縷の望みを抱いていた山本は、部隊に対して言った。「ワシントンで行われている対米交渉が妥結したならば、ハワイ出動部隊はただちに反転して帰投せよ」
それに対して、南雲中将など何人かの指揮官は、答えた。「それは無理な注文です。出しかけた小便は止められません」
その瞬間、山本は激して言ったという。
「もしこの命令を受けて帰れないと思う指揮官があるなら即刻辞表を出せ。百年兵を養うは、ただ平和を守るためである」
山本は、悲しかっただろう。不合理な政府の決定。当然のことを理解しない部下。その間に挟まれながら、対米戦の無謀さを誰よりも知ってしまっていた、その理性が心を苦しめただろうと思う。
山中れいじ
昨日のNHK「そのとき歴史が動いた」は、スペシャルだった。「もう一度聞きたい あの人の言葉」というテーマで、視聴者が選んだ「もう一度聞きたい言葉」を集めたという。
結果が興味深い。
20位 天草四郎
「いま籠城している者たちは来世まで友になる」
『四郎法度書』より
19位 吉田松陰
「死して不朽(ふきゅう)の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業(たいぎょう)の見込みあらばいつでも生くべし」
『吉田松陰全集 普及版(安政6年7月中旬、晋作宛の手紙)』より
18位 徳川家康
「三河武士は宝を持ちません しかし あえて宝といえば
私に命を預けてくれる五百騎の武士(もののふ)たちでありましょう」
『寛元聞書』より
17位 中岡慎太郎
「志とは 目先の貴賤で動かされるようなものではない 今 賤しいと思えるものが明日は貴いかもしれない
君子となるか小人となるかは家柄の中にはない 君 自らの中にあるのだ」
『中岡慎太郎全集(文久元年十一月二十六日 北川竹次郎宛手紙)』より
16位 藤堂高虎
「寝室を出るときから今日は死ぬ番であると心に決めなさい その覚悟があればものに動ずることがない」
藤堂家の家訓が記された『遺書録』より
*『高山公實録(こうざんこうじつろく)』(編・発行上野市古文献刊行会)に所収されています。
15位 黒田官兵衛の言葉
「我 人に媚びず 富貴(ふうき)を望まず」
『黒田家譜』より
14位 劉備玄徳
「大事をなすにはなによりも人をもって本(もと)となす
今 自分をしたってきてくれている人々をむざむざと見捨てて行けるか」
『正史三国志』より
13位 柳生宗矩
「こうしようと一筋に思う心こそ人が誰しも抱える病である
この病を必ず治そうというこだわりもまた病である
自然体でいること それが剣の道にかなう本当にこの病を治すということなのである」
『兵法家伝書』より
12位 近藤勇
「孤軍たすけ絶えて俘囚(ふしゅう)となる 顧みて君恩(くんおん)をおもえば涙更に流る
義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所 快く受けん電光三尺の剣
只将(ただまさ)に一死君恩に報いん」
(原漢文より一部抜粋)
*辞世の詩。原文は漢文のため様々な訓読がありえますが、今回は木村幸比古氏『新選組局長近藤勇』(淡交社)の訓読を参考しました。
11位 上杉鷹山
「成せば成る 成さねば成らぬ何事も 成らぬは人の成さぬなりけり」
『なせばなる文書』(米沢市上杉博物館蔵)より
*漢字の表記は原文書によりました。
10位 白洲次郎
「われわれは戦争に負けたのであって奴隷になったわけではない」
『占領秘話を知り過ぎた男の回想』より
9位 武田信玄
「上杉謙信とは和議を結ぶように謙信は男らしい武将であるから
頼ってゆけば若いお前を苦しめるような行いはすまい
私は最後まで謙信に頼るとは言い出せなかった
お前は必ず謙信を頼りとするがよい
上杉謙信はそのように評価してよい男である」
『甲陽軍鑑』より
8位 石田三成
「筑摩江や 芦間に灯すかがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」
辞世の歌。長浜市石田神社の石碑に刻まれています。
「筑摩江」とは琵琶湖の東北岸沿いの土地の呼び名で、ここは三成の故郷でした。この歌は死を前にした三成が、湖岸のかがり火のはかない明かりに自分の姿を託して詠んだもの伝えられています。
7位 杉原千畝
「私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない
しかし 私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった
大したことをしたわけではない 当然のことをしただけです
『六千人の命のビザ』 より
6位 織田信長
「是非に及ばず」
『信長公記』より
5位 大和の海軍士官
「日本は進歩ということを軽んじすぎた
私的な潔癖や徳義にこだわって真の進歩を忘れていた
敗れて目覚める それ以外にどうして日本が救われるか
今目覚めずしていつ救われるか
俺たちはその先導になるのだ 日本の新生にさきがけて散る
まさに本望じゃないか」
元乗組員による大和沖縄特攻を描いた手記『戦艦大和の最期』より
4位 坂本龍馬
「日本を今一度せんたくいたし申候」
『文久3年(1863年)6月龍馬の姉への手紙』より
3位 山本五十六
「百年兵を養うはただ平和を守るためである」
『戦史叢書 ハワイ作戦』より
2位 諸葛亮孔明
「学問は静から 才能は学から生まれる
学ぶことで才能は開花する 志がなければ学問の完成はない」
孔明が子孫に残した家訓『誡子書』(諸葛鎮の大公堂に保管)より
1位 高杉晋作
「おもしろきこともなき世をおもしろく…」
『高杉晋作』(奈良本辰也著)より
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私は上記の中では、坂本竜馬の「日本をせんたく」が好きだ。高い志を、やわらかい日本語でユーモアを交えて表現しているところが、心地よい。
上記以外に、私が個人的に最も印象を受けた言葉は、美濃の治水工事を成し遂げた『薩摩義士』平田靭負の言葉でした。平田靭負は、美濃を訪れた薩摩藩の家臣に自らの刀を渡し「これを持ち帰って自分の墓に埋めてくれ。本日をもって平田靱負の命日とする」と伝えたとのこと。
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2005_06.html#01
官僚的な組織と、苦しみ傷ついていく部下の間に立ち、悩み、苦しんだ平田靱負。「決死の覚悟」とはどういうことなのかを、私に教えてくれた一言だった。
山中れいじ
私が学生時代にディベートをやっていたという話をしたら、弊社のアシスタントの女性が一言。
「れいじさん、ディベートの時も『ほうほう。』とか『はあー。』とか言ってたんですか?」
ちなみに、言ってません。英語だし。
山中れいじ
娘の幼稚園の卒園式が、16日(金)にあった。笑いあり、涙ありのアットホームな卒園式だった。
娘の担任の先生が、ご結婚のため、幼稚園を辞めることが、当日初めて発表された。幼稚園の中でも父母たちの圧倒的な信頼を得てきた、素晴らしい先生だった。
挨拶中に涙を流した先生を見て、親たちも泣き始め、そして私の娘も涙を流し始めた。
そして最後の歌に突入。子供たちは元気よく歌い始めたが、先生の引くピアノの伴奏が途中から、ずれ始めた。何が起きたのか、子供たちが首を伸ばしてピアノを見る。ピアノ担当の先生は涙で楽譜が見えなくなってしまったようで、ただでさえ上手とは言えないピアノが、さらにボロボロになっていた。ピアノは途中でストップしてしまったが、子供達は元気良く歌い終えた。
ベテランの先生が多い、この幼稚園に娘を入れて良かったと痛感した。しかし感慨に浸る間もなく、4月から下の娘が、この幼稚園に入園する。
その下の娘を抱いて、記念写真に望んだ私は、ぎっくり腰になってしまった。
山中れいじ
横川電機社長だった美川英二さんが胆管がんで亡くなった年齢は、65歳。
(中略)
最後の入院生活の中で、美川氏は感激で涙を流すほどの気づきをした。体力がなくなって力むことができなくなると、思うように排便できず、便が腸内で固い宿便となって、さらに出なくなる。美川氏が苦しんでいると、若い看護士たちは勤務時間が過ぎても、肛門から指を入れて便をかき出してくれる。"芋掘り"だ。
ある日、美川氏は見舞いに来ていた三男の卓三氏に、涙を流して、看護士たちがひたむきに便をほじくり出してくれるんだと、感激していることを語った。
「俺は会社で、お客様の満足とか社会貢献とか言ってきたけれど、あんなのは言葉だけだった。人から受けるひたむきなサービス以上の究極のものはない。そのことをわかる感性を身につけて、お客さんの相手をするようにならなければ駄目だ。会社に復帰したら、第一線を退いて、研修センターを創設して、社員のサービス研修に徹底的に取り組むのだ」
人は往々にして、知識レベルや作業手順書だけで、物事や人の心を理解できたと思ってしまう。しかし、真底から当事者の心情までわかるということは、至難の業だ。自分がその身になってみると、本質的なことはまるでわかっていなかったことに気づくのだ。そういう気づきが起こるかどうかは、個人個人の感性の鋭さや豊かさにかかっている。
(柳田邦男「新・がん50人の勇気」文芸春秋2007年4月号からの引用)
多くの医師、看護士、そして患者を取材し、かつご自身の息子さんを脳死状態の末亡くされた柳田邦男さんならではの、深いメッセージだと思う。
山中れいじ
クリスマス・カードにしては時期遅れのカードが一枚、アメリカから届いた。差出人は、Jon McGrew氏。私がピッツバーグの老人ホームでインターンとして働いていた時に、いつも夕食を共にしていたMac McGrew氏の息子である。
封を切ると、Mac McGrew氏が死去したという。享年94歳。昨年末は、転居の準備で忙しく、クリスマスカードを送れなかった。McGrew氏が受け取るはずだった、最後の日本からのカードが、まだ私の机の中にある。
Mac McGrew氏は、活字の大家だったと聞いていた。私がお会いした時には、目がほとんど見えず、耳もほとんど聞こえず、ご本人はそれを苦にしていた。しばしば息子さんが老人ホームを訪問していたものの、あまり幸福そうには見えなかった。一昨年前、私が久々にピッツバーグを訪問した時には、ベッドで、寝たきりに近い状態だった。あれが、最後の別れだった。
何の気もなしに「Mac McGrew」というキーワードで、Google検索してみた。すると、驚いたことに、ピッツバーグの地方紙で、McGrew氏の死去のニュースが取り上げられていた。
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http://www.post-gazette.com/pg/07063/766709-122.stm
Obituary: M.F. "Mac" McGrew / Foremost authority on metal typefaces, worked at Ketchum
June 1, 1912 - Feb. 28, 2007
Sunday, March 04, 2007
By Mike Bucsko, Pittsburgh Post-Gazette
At age 14, M.F. "Mac" McGrew bought a Kelsey Excelsior printing press, designed as a "parlour press" for hobbyists.
It was the beginning of Mr. McGrew's lifelong love of printing and typesetting, a romance that culminated six decades later in his publication of a reference book on American metal typefaces that has become the bible on the subject.
Seen as the leading authority on typefaces, Mr. McGrew received inquiries from around the world from those in the printing and design business who were stumped by a certain typeface, said Mr. McGrew's son, Jon, of Kingston, N.Y.
Mr. McGrew was also one of the founders of the Pennsylvania Trolley Museum in Chartiers, Washington County.
Mr. McGrew, 94, died Wednesday of complications from pneumonia at the Asbury Heights retirement community in Mt. Lebanon, where he had lived for the past 20 years.
Born in Chattanooga, Tenn., Marion Foreman McGrew moved to Crafton with his parents and younger sister in 1916. Mr. McGrew's interest in typefaces may have first been stirred by his father, Carl, an architect who specialized in inscriptional lettering, that is part of the architecture of buildings. The Chamber of Commerce Building, Downtown, is an example of Carl McGrew's work, said Lucinda Dyjak of Ben Avon, Mac McGrew's daughter.
In high school. Mr. McGrew experimented with typewriter typefaces and their use in portraits. A typewriter typeface portrait he made of President Franklin D. Roosevelt later appeared in "Ripley's Believe It or Not," his daughter said.
Mr. McGrew worked at a few printing companies in Pittsburgh while he attended the Carnegie Institute of Technology, now Carnegie Mellon University, before he opened his own print shop in Crafton. After a stint in the Army during World War II, Mr. McGrew moved back to Pittsburgh and continued to work in the printing business.
In 1950, Mr. McGrew got a job as the typographic director at what became the Ketchum Advertising agency. He worked at Ketchum until his retirement in 1977.
Over the years, Mr. McGrew wrote hundreds of articles about typefaces for various publications. He began work when he retired on his classic reference, American Metal Typefaces of the Twentieth Century, which was first published in 1986.
Mr. McGrew's encyclopedic knowledge of typefaces made him the person to seek for companies and individuals with questions, including Adobe and other companies that design computer software for the printing and graphic design business, his son said.
In addition to his son and daughter, Mr. McGrew is survived by a grandson. A memorial service for Mr. McGrew will be at 1:30 p.m. Wednesday at Asbury Heights, 700 Bower Hill Road, Mt. Lebanon.
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ただひたすらに活字と書体を愛し、「活字歴史家」として稀有な人生を歩んだMcGrew氏。Adobe社ほか数多くの企業が、彼の知見を求めてコンタクトしてきたという。奥様を亡くした後の晩年は寂しかったが、自分の好きなことをひたすら極めつくした人生は、それ自体が素晴らしい芸術だと思う。
山中れいじ
上の娘(もうすぐ6歳)が、一輪車に乗れるようになった。幼稚園のクラスメート達もほとんど、マスターしており、子供の学習能力の高さに驚いている。
私は毎朝子供に、
「やれば できる!」
「なんでも できる!」
「りお(娘の名)は できる!」
と叫ばせ、ハイタッチしてから会社に出勤するようにしている。未知のことに挑戦する意欲を持って欲しいと願い、自分に暗示をかけさせている。そのため、かはわからないが、これまで縄跳びや逆上がりなど、たいていのことは「できる!」ようになってきた。
私も、子供に負けてはいられない。一輪車くらい、すぐ乗れるはずだ!と思って、娘の一輪車を借りて練習を始めたのだが、これが難しい。月曜日には極度の筋肉痛と、腰痛に悩まされた。
ここであきらめては、私自身が「やれば、できる」の反証になってしまう。ここで引き下がるわけにはいかない。
誰か、一輪車に乗るコツ、教えて下さい。
山中れいじ
私は、Numberなどに載っているスポーツ・ノンフィクションが好きだ。そこで、本屋でふと見かけた、Number誌掲載ノンフィクションの傑作選を買った。
その冒頭に載っていたのが、歴史に残る傑作「江夏の21球」だ。ナンバー誌の創刊号に掲載されたという、(故)山際淳司氏の作品である。昭和54年の日本シリーズ最終戦で、一点差で勝っていた広島が、近鉄に攻められ、ノーアウト満塁にされた後の21球の攻防を描いている。
短い文章なのだが、その素晴らしさと心理描写の細やかさに、心を揺さぶられた。
江夏が打ち込まれた時に、古葉監督は、他の投手をブルペンに送り、投球練習を始めさせる。それを見た江夏のプライドは傷つき、怒りがこみ上げる。
古葉監督は悪くない。同点に追いつかれた時には、江夏に打順が回ってくる。その際に代打を出すためには、江夏に代えるピッチャーを用意しておかなければならない。
江夏も悪くない。「優勝請負人」としてのプライドがある。身体をボロボロにしながら、広島の快進撃を支えてきた守護神としての自負がある。
それでも、一瞬の間に、上司と部下の心の中に、想像を絶するコンフリクトが発生する。これが恐ろしい。
このコンフリクトを解消したのは、衣笠だった。サードを守っていた衣笠が、江夏に近づいて、声をかけたという。
「オレもお前と同じ気持ちだ。ベンチやブルペンのことなんて気にするな」
(「江夏の21球 昭和54年日本シリーズ 近鉄対広島第7戦)」
このコメントのことを、江夏は振り返っている。
「あのひとことで救われたという気持ちだったね。・・・胸のなかでもやもやっとしとったのがスーッとなくなった。そのひとことが心強かった。集中力がよみがえったという感じだった。」
このギリギリのシーンで、適切な言葉をかけられる衣笠は凄い。衣笠は、どれほどデッドボールをぶつけられても、笑顔で立ち上がる「鉄人」だった。"Emotional Intelligence"という言葉は、衣笠のためにあるような言葉だと思う。
とにかくこの「江夏の21球」は素晴らしかった。人の「心」の難しさと、偉大さに触れることができる名文、ぜひ一読をお勧めしたい。
山中礼二